「親心」を押し付けられましても・・・

個人のFacebookページで
2年前の制服リユースの投稿を再アップしました。
保護者が制服代の心配なく
子ども達を学校に通わせてあげられるよう
本当の意味での教育無償化を実現して欲しい。
制服リユース(お下がり)の仕組みがもっと広がればいいな。
というものです。
制服リユースを行政が取り組めば、
経済面の負担も少なく済みます。
実際、取り組んでいる市もあります。
そしたら、コメント欄に
「新品を買ってあげたいのが
親心でしょう」
という
政治に関わろうとしている方からの書き込みが。
買いたい親は買えばいいんです。
でも、制服代にお金をかけたい親
ばかりではありません。
誰もが無料で譲り受ける仕組みができれば、
(買う・買わないどちらでも選べれば)
いいなと思うんです。
というご返信をしました。
親心まで否定しないで
私が悲しくなったのが
「新品を買ってあげたいのが
親心」
って言葉です。
じゃあ、買ってあげない親には
親心がないというのでしょうか。
「新品が親心」と言われたら、
お下がりを着せている親としては
親心がないね、
と言われてるように聞こえます。
新品の制服を
買ってあげるかどうかが
「親心」の境目
なのでしょうか。
親心ってちょっと滑稽
そもそも私は「親心」という言葉に
違和感を感じています。
私が思うに(全てではないですが)
だいたいの「親心」は
傍目で見ると滑稽です。
子どもの事を見ているようで
”目に見える結果”ばかり見ています。
「はえば立て、立てば歩めの親心」
というのもそうです。
ハイハイすごいじゃないですか!
立ったらすごいじゃないですか!
今の子供を認めてあげればいいんです。
それなのに、
「次はこれができるだろう
なんでまだできないんだ。」
「なぜあなたは、
ハイハイに左足を使わないんだ。
左足も使いなさい」と逐一注意するんです。
その子はそれがやりやすいから
そうやっているのに、
本人の意思関係なく、
自分の思う”普通”に沿わそうとするんです。
その上、
「親心」なんだから
子どもは、
ありがたく思わないと
いけない
という空気もあります。
感謝したい事には感謝すればいい。
だけど、親心ってだけで
全てに感謝しないといけない
なんてのはおかしいです。
親心で、
子どもに負担がなければいいですが
心理学的に見れば
今のその子を認めてあげた方が
子どもの自己肯定感は高めてあげられます。
自己肯定感は
その人の人生に大きく影響します。
「どうせ自分なんか」と
自己肯定感を下げ、あきらめて生きるより、
イキイキと人生を歩む上で
現代、教育上でもとても重要視されています。
世間の”普通”に
子どもや自分、自分の子育てを
あてはめる必要はありません。
「そうは言っても」
となるなら、
”普通”の範囲を広げましょう。
あなたの周りの普通が
世の中の普通とは限りません。
過去の普通が
これからも普通とは限りません。
時代は進んでいます。
視野を広げると
”普通”を広げる事もできるし、
”普通”にこだわっていたら
せっかくの子どもの可能性を
狭める事にも気付けます。
特に、政治に関わろうとする人なんかには
視野を広げていって欲しいなと思います。
市民の中には
制服代くらい”普通”に買えるご家庭だけでなく
制服代が家計を圧迫するような
いろんな家庭の状況の方が
いらっしゃるのですから。
(現在、その政治に関わろうとする方の
「親心」コメントは、削除されています。)
まぁ、
完璧な人間なんていないのですが、
悲しいなと思いました。
制服、買いたい人は買えばいい。
譲り受けたい人は譲り受けられればいい。
どちらの価値観も
認めあえる世の中がいいですね。
親心については、
「生き抜く力を持った子どもを育てる」
でも、紹介されています。
本日も
最後までご覧頂き、
ありがとうございました(^^)